神明太一社(神明大一社)の鳥居のナゾを追え!

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1.はじめに

わたしは、愛知県岩倉市で観光まちづくり事業を企画・運営する「NPO法人いわくら観光振興会」で働いています。岩倉市は、愛知県の北西部、西尾張地区にあり、市のほぼ中心を流れる五条川は日本の「さくら名所100選」に選ばれたお花見処で、毎年春に行われる“岩倉桜まつり”が有名です。そんな五条川の桜のように、すでに観光地として認識されているような名所に行くことだけが観光ではないという考えから、日々まちの新しい観光資源を探しています。

今回は、【石に刻まれたモノを見ると、事柄だけでなく、背景も見えてくる。】という話です。

 

2.石が呼ぶ(?)

冒頭に書いたのですが、岩倉市にとって、五条川の桜は大切な観光資源の1つです。わたしもそんな桜を守る側の立場でもっと活動したいと思い、2年ほど前に岩倉五条川桜並木保存会の会員になりました。

1か月に1回程度、定期的に肥料や選定など、市内を流れる7.6キロの五条川沿いで活動に参加しています。その活動中、気になる石柱に出会いました。

いや、正確に言うならば、前から石柱はあるのは知っていたのですが、改めて見てみた時に、何を示すものかちゃんと知らなかったことが、急に悔しく、とてもさみしくなり・・・これは、石が私に「今、調べろ」と言っているに違いないと思い、詳しく調べてみる事にしました。

まず、その石柱はこちら。

(写真:石柱)

石柱があるのは、岩倉五条川に架かる、生田橋の付近です。
刻まれている文字「神明太一宮一神門」の「一神門」 とは、ここ(付近)に1つ目の鳥居があったことを示すもので、その先の難しい漢字は(あと)今の字で「旧跡」を示すものです。
生田橋から神社までは随分距離があるけど「神明太一宮」ってあの神明太一?なの?
 
岩倉市にある神社 「神明太一社」 

(写真:神明太一社拝殿 ※漢字は神明大一社でもどちらも合っているとのこと)

市の中心部、中本町に鎮座する神社で、永久(平安時代)以前より、伊勢の神宮を勧請奉斎された神明社です。稲荷社、子安社、白山社、天神社など多くの境内社の他、御手洗池、太鼓橋、山車倉庫もあります。春と夏には、伝統的な山車曳きも行われ、市民にとっても馴染みのある神社の1つです。

(写真:神明太一社の中本町区山車 岩倉橋にて)

3.謎を解いてみせる!観光振興会の名にかけて・・・!

神社についての資料を見てみれば石柱のこともすぐに分かりそう♪
ということで、岩倉市史の付属資料を見てみます。

(写真:岩倉市史 資料一 近世村絵図 金石文)
(写真:神明太一宮鳥瞰図)

資料によると、神明太一宮の鳥居は全部で4つありました。
分かりやすく番号をつけてみます。

絵図から見ても、石柱はやはり、神明太一社の鳥居があったことを示すものでした。
第2の鳥居があることも分かりましたが、3つ目の鳥居に関しては、今の鳥居の位置と違うところにある・・・気がする。

 位置関係どうなっているんだろう?と気になり
神社の方に直接話を聞きに行くと
👴「あなたが3つ目と思っている鳥居は、あなたが正門だと勘違いしている鳥居のことだよ~」
とのこと。
ななな、なんと!!⚡どういうことだ~??
 
わたしが表かと思っていた、バス通り沿いの鳥居。

(写真:バス通り(県道浅野羽根岩倉線)から見た神明太一社)

そもそもバス通り沿いの鳥居は、表ではないとのこと。本当の表は、街道沿いのこちら。

(写真:岩倉街道から見た神明太一社)

今は鉄製のものが立っていますが、以前はこちら側に 3つ目の鳥居があったのを 
バス通り沿いに移動したのだそう。
 
理由は、先ほどの古い絵図でみると分かるのですが、鳥居よりも中に神主さんの住居もあって御不幸があった際などもすべからく鳥居を通して持ち帰ったりしてしまう。
それに加え神社周辺では、鉄道が廃止になって今のバス通りになったり、道が拡張されたりと、時が経つにつれいろいろな動きがあり、タイミングを見て鳥居を移築したかたちになったそうです。
 
ということで、最初にお話した 1番目の鳥居から、2番目、神社までの位置関係を岩倉市の白地図に落とし込んでみます。

市のほぼ中心を流れる五条川、岩倉市内の長さは約7.6キロなので
ざっくりですが、1の鳥居から3番目の鳥居までは、1里 を目安にした?のでは??(ただの推測です~)
※1里 3.92727キロ
 

4.まとめ 人は昔から石にモノを刻んできた。

人は昔から、石に様々な事を記録してきました。と、言ってもあまりピンとこないという方もいらっしゃるかもしれません。実は、普段生活している身近なところにも、たくさんの石造物が残っています。具体的には、公園や施設の名前を刻んだ表札の役割をするもの、それから、土地改良碑や戦争の慰霊碑、道標や石柱などです。そこには、人の名前や、建物が建てられた年代や経緯など、様々なことが刻まれています。
石柱などは、それこそ自分が生まれる前からあったりするものなので、つい、最初からそこにあったんだろうと考えてしまいがちです。
まして神社仏閣に付随しているものなら、昔からそこにあって当然だと思ってしまいます。ですが、調べてみると元々はそこになかったり、意外と新しいものだったりして驚かされることがあります。
気になったら調べてみる。
そんな当たり前のことが自分にとって新たな物語を生み出すこともあるんだなと、改めて感じた一件でした。
 
 
追伸:神明太一社の二の鳥居の跡の石柱もしっかり残っています。
また、この二の鳥居は、事故かなにかでダメになったかで建て替えられており、旧二の鳥居石柱は神明太一社の敷地内にあります。神明太一社の敷地内には他にも歴史が詰まった石が沢山ありますよ。
 

(写真:左:岩倉街道沿いにある石柱 右:神明太一社内の旧二の鳥居の石柱)
(写真:神明太一社内にある石など。山川勝蔵にまつわるものが多い。)

※山川勝蔵(1840-1929) 旧岩倉村中市場生まれ。農家の出だが、江戸に出て、西洋料理店を開業。 1882年(明治15年)料亭兼旅館「豊国」を開業した。(岩倉五条川に架かる豊国橋の名前の由来。)
 神明太一社に、土地や資金をはじめ、神馬銅像、御手洗池、石橋、灯籠、鳥居など多くの寄進を行った。
この記事を書いた人
木村さや香

NPO法人いわくら観光振興会
人事教育長/イベント企画制作
1986年生まれ。岩倉市在住。1児の母。岩倉市PR大使い~わくんのアテンド"鯉のぼり恋子 "としても活動。「観光資源は自分たちでつくることができる」をコンセプトに、市内の農家や商店、消費者をつなぐ企画を提案している。

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